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納骨堂を選ぶコツからペットのお墓まで

「納骨堂」、どんな"カタチ"があるのだろう~その歴史から①

現在の納骨施設はどのような状況にあるのでしょうか。主に下記の5つに類別されると思います。


  1. ① 「棚式」 棚に骨壷を並べるタイプ
  2. ② 「ロッカー式」 骨壷を個々に収めるために区分けされたスペースに扉のついているタイプ
  3. ③ 「仏壇式」 下壇の骨壷を収蔵する部分と、上壇の位牌を飾り、供え物を捧げる部分に分かれるタイプ
  4. ④ 「墓型式」 屋外墓石を模し、これを屋内に取り入れたタイプ
  5. ⑤ 「合祀式」 遺骨をひとつにまとめてしまうタイプ

もっとも、昨今では、⑤「合祀式」(①「棚式」や②「ロッカー式」などを含む場合あり)については"永代供養墓"と呼ばれていることもあります。

ロッカー式の納骨堂
写真提供:紫雲山 瑞法寺

納骨堂、納骨施設を造る一般的な理由には、次のようなことが挙げられます。

  1. 1.墓地より生じた無縁焼骨を改葬し整理するためのもの
  2. 2.建墓が終了するまでの間、あるいは安置先とされる一時預かり的なもの
  3. 3.境内に墓地を設けるスペースがないことから、本堂などを大幅に改築する際に、その地下や階上に納骨施設部分を設けるもの

つまり、これまでは納骨施設を宗教法人、特に仏教系宗教法人である寺院の運営における要(かなめ)として積極的に取り入れるに足りる理由はありませんでした。事実、その数が少なかったり、今でも少ないことはこれを裏付けるものであったと考えてよいでしょう。

また、上記の3つの理由に加えて、4. 行政主導による都市計画事業の影響によって、墓地から納骨堂へと外観を一変させる事例も少なくありませんでした。例えば、東京都区部においては、関東大震災や先の大戦を契機として進められた区画整理事業によって、街路の拡張などが行われ、境内地が削減されることも珍しいことではありませんでした。しかも、その都市計画のなかで、墓地は常に街の景観を損ねる存在と位置付けられてしまい、廃止、郊外ヘの移転、もしくは屋内に取り込むようにとの強い行政的な指導を受けたことなどから、納骨堂・納骨施設の設置を余儀なくされた例も見受けられます。

もっとも、当時建てられた納骨堂・納骨施設の中にも、行政主導による都市計画事業の影響によるものだけではなく、寺院自らの構想によって設けられたようなものもあります。従って、そうした場合に採用される納骨壇の形式にしても、棚や収納ロッカーという簡易な構造ではなく、仏壇式、屋内式「墓地」といったものも出現しています。戦前・戦後にかけても、すでに納骨堂・納骨施設が墓地と同等の役割を担って建設されるに至りました。
屋内式の墓地
写真提供:トップス

一例として、大正2年に建てられた江東区の曹洞宗T寺の納骨壇は、その材質にアルミなどを使用しており、祭壇下には収骨スペースが設けられている点などは、現在みられる軽金属・アルミメーカー製の既製納骨壇と比べても、何ら遜色はありません。また、文京区の浄土宗S寺は、昭和3年に当時の東京「府」の指導に従い、境内墓地を納骨堂としたものです。その当初に造られたものは、木製の三層に分かれた納骨壇でしたが、昭和51年に本堂を改築した折に、納骨壇もステンレス製のものに改められました。しかし、その型は墓石を摸しており、今日でも一風変わったものとなっております。

こうした屋内式墓地について、さらに付け加えれば、昭和58年に建てられた愛知県名古屋市の日泰寺の霊堂や、昭和61年の東京都江東区の浄土宗正覚寺の「はごろも御廟」、加えて前述の文京区にある「本郷陵苑」や神奈川県横浜市の「関内陵苑」などがその現代的な代表といえるでしょう。従来の納骨堂、納骨施設にしつらえられた納骨壇に比べても、より墓地に近い型が求められていることを反映させたものともいえます。もっとも、このような納骨壇は意外に早い時期から造られていました。都内では、昭和5年に造られた中央区の日蓮宗T院、あるいは、昭和の初め頃に造られた墨田区の曹洞宗F寺など、大正、昭和初期に造られた屋内墓地式の納骨施設も珍しくありません。

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